書評:荻原浩「明日の記憶」~削り落とされる記憶に宣戦布告!!
c0072240_2245130.jpg  荻原浩「明日の記憶」を読んで、記憶について考えさせられた。
  
  あらすじは、物忘れが気になり始めた普通の会社員が、若年性アルツハイマーと診断され、病状の進行とともに東西南北する物語である(噛み過ぎて、味気の失せたガムを噛むような拙い要約で非常に恐縮です)。このように書くと、闘病小説、介護を通じた家族小説、祈りと回復の文学etcを想像するかもしれない。
  
  捉え方は、さまざまであるが、いずれにしても、初期段階としては、仕事の打ち合わせの約束・内容、些細なところでは熱燗の仕方(湯を張った鍋に徳利を沈める作業)を思い出せなくなる。そして、たゆまず進行する病状に比例して、家族の名前、更には顔も忘れていくのである。特効薬はなく、病状の回復及び現状維持は不可能であり、味覚すらも失われていく情景が、主人公の視点および主人公の物する日記を通じて、畳み掛けるようにして描写される。
  
  主人公は、突然の病難に襲われながらも、地に足をつけた強さで粘り強く、タフに生きていく。しかし、強さというのは、回復不能を前提とした戒厳令下での強張りであり、ドンキホーテ的な滑稽さと惨めさ表出のトリガーともなっていく。
  
  例えば、出会った人間の顔と名前を一致させるために、自筆の似顔絵に名前を添え、趣味嗜好を記録し、仕事で打ち合わせた内容を「常軌を逸した」様子で逐一メモをしていく。溢れかえったメモで膨らんだポケットは、周囲の人々に奇異に映り、嘲笑の対象となる。
  あるいは、通い慣れた取引先の所在地を突然忘れてしまい、スクランブル交差点の真ん中でパニックに陥る描写は壮絶だ。書き溜めたメモが道路に散乱し、クラクションと罵声が連呼される。しかし、彼は、まだ諦めない。同じ過ちを繰り返しまいと、通う必要のある場所について、手書きの地図を描き手帳に挟むのだ。病状の進行に伴い、駅から自宅までの地図も、その手帳に追加されることになる。
 
  このように彼は、自力で遭難に対処する。彼の強さは、それだけに留まらない。妻が、彼の現状維持を願い、玄米茶、魚料理を準備する献身が昂じて、効能の期待できない高額な霊感商法的なブレスレットを思い余って購入して彼に与える。自分の救いも重ね合わせて。そこで彼は言葉を吐く。


男「ふざけやがって、人の不幸につけこみやがって」
・・・
「もういいから、俺のことは。やめろよ、こんなこと・・・・・こんなことしたて無駄な。なぁ、もう・・・・・」(中略)「もういいよ、俺のことは。おまえはまだ若いんだから、俺がいなくなってからのことを考えろ」


  彼の強さの極めつけは、物語の終盤、すなわち彼の病状は深刻度合いを増した末期症状期にある。電車に乗ることも困難な状態の中、ただ一人介護施設の下見に出向くのである。そして、その足で、短期記憶の衰退している中でも、逆に鮮明となる何十年も前の記憶を頼りに山奥の窯を訪れる。
  そこでの浮世離れした滞在。そして、帰るべき我が家への帰途・・・。そこから先は、読んでのお楽しみである。ここで言えるのは、映像が自然に浮かんでくる素晴らしさだけである・・・。


  長々と書いてきたのだけど、この物語のテーマにお気づきだろうか?
  
  この物語は、ハメット、チャンドラー、原尞へ連綿と受け継がれてきたハードボイルド小説なのである。突然、病難(=事件)に巻き込まれ、周囲の助けも借りながらも、基本的には自分を律して自力で対処していく。そして、周囲に対する視線は常に優しく、自らが責を負う。ハードボイルドの教科書的な舞台設定ではなかろうか?
  形式的に穿つならば、アイリッシュ「幻の女」に代表されるデッド・リミット・サスペンスが、展開されることに収斂される。もちろん本作品におけるデッド=死とは、「記憶の死」ではあるが・・・。これはもちろん、特異な状況下で展開される物語の必然ではあるものの、看過し得ない類似であると思う。

  結論。作者は、アルツハイマーという社会問題に衣を借りて、極上のハードボイルドな小説を展開したのである。ただし、ラストシーンを除いた最大の泣かせどころは、干支について、妻が忘れ、男が覚えていた状況下で交わされる会話、


男「二人揃って痴呆だなんてしゃれにならない」
妻「案外、それもいいかも」


であり、その点では、家族愛をも惜しみなく表現したズルイ小説でもあるのだ。

p.s.
アルツハイマーという社会問題を扱っている本作品。小道具も粋だし、ラストシーンの美しさも考えると、映像化されるカモと思いますが、その時は「家族愛」を前面に打ち出してしまうのは残念だなあ。そんな、イラン危惧を抱いてしまう、余計者の私であります。
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by keroyaning | 2005-03-10 22:19 | 書評
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