ブログ脳の作り方:「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」

  ゲーム脳は怖い。

「ゲーム脳」型の人間になると、大脳皮質の前頭前野の活動レベルが低下し、この部位が司る意欲や情動の抑制の機能が働かなくなって、思考活動が衰えるという。

                  ~フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  字面を追うだに恐ろしい。

  しかし、人間は言葉を怖がり、忌避するようなヤワで清廉な生き物ではない。貪欲が進化の源泉である。たとえば、凶悪な事件が起こった時に、専門家は、動機以前の精神分析にテレビゲームの影響をリンクする。すなわち人間心理の闇という不可知なるものを置き換え可能な抽象ワードでカテゴライズするという作業である。思考停止の打破。理由付けという麻酔薬。
  
  また、知的議論において、禁忌される"レッテルを貼る"という行為も根を同じくする。根も葉も判ずることが出来ない事象に対峙して、人は曖昧模糊とした不安に怯える。インテリジェントなジェントルマンは、怯懦な敗北を潔しとしない。故に、竹槍を担いでステルス爆撃機という不可視で超理解な存在物に、ペンキで縁取りすることで安心する。



  と、のっけから偉そうに論じているのは、ゲーム脳をWikipediaで調べたところ、あまりに恐ろしいことが書かれていることに愕然として、怖いから逃避しているからに過ぎない。




---

  さて、ブログ脳である。ブログというツールが過渡期であるせいか、正面切ってネガティブに論じるブログをほとんど見かけない。だがしかし、ブログを書くブログマン万人が口にしないだけであり、彼の万人は身体の奥底から、その恐怖について実感していることは確実だ。多分。


以下、私の疾病症例を利用して、ブログマンの心を蝕む根深い病巣を分析してみよう。




◆第一期:

青雲の志を胸に秘め、錦の御旗を掲げようと考える。


  最近、ブログ、ブログってよく聞くけどなんだろな?ホームページとはチガウのかね?先進天下のアメリカ帝国では、ブログ記者なんてのが、権勢に影響を与えているらしいな。よくわからないけど、私も情報を発信してみようかね。簡単そうだしね。
  本を読むのが好きだから、書評でも書いて、世の中に問うてみよう。このジャンルは、開拓者たる先人が多くて、なんか彼らの後塵を拝するようで残念だけど、まあ、内容が優れていれば、好まざるとも評価されていくことだろうしな。ウフン。
  
  というように、実際には大した青雲もないままに、ブログの海に飛び込んでいく。




◆第二期:

アクセス数が気になる、と同時にネタの枯渇に悩む。 


  この症状は、開設して、大体一ヶ月程度で発症する。しっかりと書いているのだから、たくさんの人に読んで欲しいものだ、という悪魔がささやく幻聴に悩まされる。最初は、幻聴程度の軽症であるのだが、症状が悪化するにしたがい、「これだけ素晴らしいものを書いているというのに、見てくれる人がこんなに少ないなんて!日本社会の知性は何処へ行ってしまったのだろうか?嘆かわしいことであるよ!」なんて、パソコン前で、裸の王様フルチン状態になって、歯噛みするようになる。

  アクセス数を気にしながらも、書くべきことが沸々と頭の泉から湧き出し、それを文字化する作業が行われているのであれば、まだ救いはある。ヤッカイなのは、この第二期の症状は、ネタのストックが無くなっているという合併症を伴うことだ。開設して一ヶ月。大体、ネタは尽きている。アクセス数が少ない→ムカつく→エントリ更新不能→・・・以下ループ。
  
  かような深刻な合併症に悩み、ブログを閉鎖してしまう人間は星の数ほどいるだろう。彼らの判断の是非はともかく、彼らが幸せな人間であることは、事実である。




◆第三期:

ネタ探しに汲々とし、挙動不審になる。


  このステージは微妙だ。ブログを書く人間の精神を崩壊に導くまでに危険が内在していることは確かであるが、この症状が全てのブログマンに発症するかというと、必ずしもそうではない。
  
  そもそもブログとは、各個人の興味の表出結果である。季節の移ろい、生活の彩りを動力として、書きたいことを書く。書き殴る。すなわち、"ネタ探し"という能動的な作業は、ブログを書く(=エントリを更新する)という行為に、本来的に相容れない異質なる物である。少なくともブログマンを突き動かすエネルギーは、極めて受動的(といって悪ければ本能的)な力なのである。

  "ネタ探し"の典型例は、巷間で耳目を引いているニュースからネタを拾ってくることだ。ブログマンは、ワイドショーで切り刻まれたネタをマイ・マナイタに載せ、マイ・柳包丁をもって屋上屋を架す如く解体する。そして・・・包丁の切れ味に酔い痴れる。

  しかし、第二期の合併症に苦しむ人間にとっては、非常に虚しい作業である。なぜなら、「俺の切り口はこれだけ新鮮で斬新なのに、なぜ人々はついてこないのだろうか?俺の斬新な論に襟を正して、正座して拝聴すべきでなかろうか?(反語)」という極めて悪質な発作に襲われてしまうからだ。暗闇で動かなかった第二期の苦しみに比べて、第三期のそれは、能動的に暗中模索したが故に倍増する。歯噛みするに加えて、頭を掻き毟り懊悩悶絶することになる。




◆第四期:

マッシュ戦役。見えない敵を撃ちまくる。


  自分が見えなくなったブログマンは、トラックバックというマジックマッシュルームに手を出してしまう。見えない敵に向かって、トラックバックを撃ちまくる。さながら、両手にMP40マシンガンを携えて、敵の結界を破る戦争映画のヒーローのように。そして、かのヒーローと同じく、撃ちながらMP40のあまりな反動に耐え切れず、目を閉じてしまう

  このマッシュ作用によりブログマンは、一瞬の快楽を手に入れるであろう。アクセス数の倍増。ヤバイことやっちまったなあ、と驚き後悔するほどの大量の足跡を目にする。そして、第三期を経たブログマンは、アクセス数の増加=自論への拍手喝さい、という認知の歪みに陥穽する。

  人は欲望の生物だ。一度、溺れた快楽に粘着固執する。その後のブログマンの姿は、想像に難くない。すなわち、話題になっている事象に同調して、エントリを書き殴り、投下する。そして、果てしなきトラックバックの連射。ループ。




◆第五期:

ブログ語りに惑溺し、同調することに安寧する。


  トラックバックの美味しさに開眼したブログマン。その必然たる結果、集客力のある、いわゆる有名ブログをたびたび訪問することになる。輝くばかりのアクセス数、楽しそうに盛り上がるコメント欄。マジックマッシュで昂揚しているブログマンは、嫉妬交じりにコメント欄を荒らしたくなる衝動に駆られるかもしれない。自分の出自である2ちゃんねるを懐かしく思い出し、我知らずに暴挙に及ぶこともあろう。もしくは、ブログマンとしての自覚が、「俺は2ちゃんねらーではない、偉大なるブログマンなのだ!」と矜持を正して自制するかもしれない。

  いずれにせよ、ブログマンは一つの世界の存在に気がつく。すなわち"ブログ語り"である。マッシュ効力の低下で、再び苦痛の暗闇に迷妄しているブログマンは、一筋の光明を見出す。有名ブログは、他サイトの引用に眩しいまでに満ち溢れている。
  
  http://d.hatena.ne.jp/gatonews/20051129/1133279819
  http://t2.txt-nifty.com/news/2005/12/post_3556.html


  いや、引用が悪いというわけではない。ネットという大海原な白地図に、蜘蛛の巣を張り巡らすことが、ブログというネット・コミューン・ツールの正しい使用法であるということも承知している。問題なのは、巣を張る行為に際しての良心であり、心がけであり、動機付けである。

  まず、自らのエントリ本文で他ブログの引用を施すことで、トラックバックを確実に撃てる。トラックバック攻撃目標が、有名であればあるほど、着弾地点からの集客を期待することが期待できる。そして、場合によっては、着弾地点のブログマンが新たなエントリにおいて、自らのブログ文章を引用するかもしれない。有名ブログの本文中での引用は絶大である。神のお墨付きを得た感慨に耽るであろう。
  ここに一つのシステムが完成する。他のブログを引用する→引用元にトラックバックを撃つ→引用元からの被引用。すなわち、ブログ世界の生態系・物質循環の完成だ。

  この段階に至るに、自由な言論空間に飛び込んだ当初の青雲も霧消して、閉鎖的なムラ社会の構成員としての生活が始まる。クローズト・サークル・システムの安寧の中で、ブログマンは他者が提起するネタに、自分風味の切り口で論じて、他者の引用を待つ。いわずもがなのことであるが、ブログマンのアイデンティティは崩壊し、自分が一体なんのためにブログを書き始めたのか、いや、そもそも自分が一体何者なのかすら、忘我の果てに消え去ってしまっている。




◆第六期:

ライバル意識の萌芽と敵対心・煽動性の誕生。


  閉鎖的なムラ社会の構成員として、日々、ブログを書く生活は、ブログ生活というパラダイムにおいては、非常に快適である。ネタという食事は三食食べ放題。やるべきことは、自分がさして興味がない話題についても、なにがしかの新しい(と思われる焼き直し)論説を書き続ければよいだけ。
  
  しかし、自ら盲目的に信じる限りにおいても、新しさの創出とは既成価値の破壊と同義である。したがって、平和なブログ・ムラに暮らしていたブログマンに新たな危機の萌芽が芽生えるのも必定であろう。すなわち、「俺が叫ばなければならない」という言われなき義務感に駆られて、脊髄反射的に既出論説に対して、引き金を引きたくなる衝動に襲われるのである。

  いや、むしろ引き金を我が手に保持しているかのような仮想ジャングルを眼光煌めきながら彷徨する軍事オタクに成り切っているだけのクセして、どこか知的ジャーナリズミング・リズミカルな自分こそが、社会に対して銃口を向けて突貫しなければいけないと狂信的に妄信する精神状態に陥った状態、という方が分り易いかもしれない。
  
  怖ろしいのは、これはブログ世界の生活に限定隔離された精神状態ではないことだ。すなわち現実生活を送る上でも、例えば、新聞記事を読みながら、「ああああ!!これはなんでこんなチンケな方向から切り刻むんだよ!ちげえッテばよお!」と悶え苦しむ症状が顕在化してしまう。

  いや、この程度ならまだ社会生活を送ることが可能である。しかし、現実世界における現実の人間と会話するに際しても、対話者の言説を既成価値の代弁であると曲解して、破邪顕正することが自らの使命であると信じ込む。狂信的言論者の社会放流であり、言論テロルの蔓延である。




◆第七期:

明鏡止水・無念夢想の達観~超人の誕生


  このように、内的には自我が、外的には社会性が、崩壊していくブログマンであるが、ブログ生活においては、ようやく辿り着いた桃源郷のブログ・ムラで穏やかに暮らしている。しかし、ある時に、天啓を授かり、福音を耳にして、悟りの境地に到達する。禅的に寿ぐならば、頓悟であろうか?
  
  「もう、どうでもよくね?」という境地。ベトナムのジャングルのようなブログ世界を彷徨したブログマンは、「無」を悟る。アクセス数なんてどうでもいい。ネタなんてどうでもいい。他のムラビト・ブログマンなんてどうでもいい。

  俺は、俺のために、俺の書きたいことだけを書く。誰が読んでいようと、誰が読んでいまいと関係ない。ただ、俺だけのために書く。フォア・マイセルフ・オンリー。では、何をどのように書くのか?書きたいことを、意味不明の言葉を連ねて、ただダラダラと長文を書き殴る。誰が読もうと読むまいと関係ない。ノー・プロブレム。ブログマン・ノ・クライ。


そうだ、俺こそが真のブログマンだ。


そうだ、俺こそが神をも超えた超人だ。



そして、クリスマスイブに投下する。ブログという爆弾を・・・






メリー・クリスマス!!!






[PR]
by keroyaning | 2005-12-24 13:35
<< 残念なこと いずれの花とぞ、ともに過ごさん... >>