書評:浅田次郎「憑神」~外因的ハードボイルド
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  エンターテイメントを書かせたら、居並ぶ者なき浅田ワールドである。彼のワールドにおいては、ジャンルがはっきりしている。本作品は、幕末物の系譜に連なり、この系譜においては、なんといっても「壬生義士伝」があまりに燦然と輝いており、本作品が小粒な印象を受けるのは止むを得ない。ぴりっと山椒の効いた佳作。

  あらすじである。主人公は、三河以来、徳川家に仕える御家人の次男である。由緒正しき彼であるが、入り婿先の策略により兄が継いだ実家に出戻り、居候の肩身狭き境遇を託っている。浅田が多用する「くすぶり」の真骨頂である。その彼が、ある時、川原の祠に己が立身出世を祈願して、順風万般な出世譚が始まるかと思いきや、登場したるは、神は神でも、貧乏神であるところから話の幕は上がり、一難去ってまた一難、主人公の運命や如何に・・・。といった感じに、寓意を柱とした軽妙洒脱なスラップスティックが展開される。

  さて、既に述べたように傑作ではない。しかし、それが功を奏して、浅田作品に距離を置いて考えることができた。


「やさしい人間ならいくらでもいる。しかし、やさしくて強い人間はいない。わしに、力をくれ」


  これは、そのままフィリップ・マーロウである。パロディかもしれず、これをもって直ちに、ハードボイルドであると考えるのは早計だろう。しかし、本作品では、「義」とはなにか?「孝」とはなにか?「家」と「家族」の希求性はなにか?という問いかけが、繰り返される。これは、本作に限った話ではない。形は違えど浅田作品全てに通じる主題である。

  私見であるが、ハードボイルドは自らの規範に則り、自らを律するスタイルである。いわば、やせ我慢の美学である。時として、自らの規範は一人よがりの徒労に思える。
  これに照らして浅田作品を考えると、大きな彼我が浮かび上がってくる。自らを律するべき規範律が、自らの外に厳然と存在しているのである。従って、構図としては、登場人物は、外部規範を各人が咀嚼・昇華して行動する。そういう意味で変格的ハードボイルドである。そして、外部規範律は「義」、「孝」という懐かしさを帯びて、読者に受容されやすいものであり、一人よがりな"やせ我慢"に陥穽しない防御壁として機能しているのだ。

  さて、本書であるが、最後の結末に落涙するか、本書を窓から投げ捨てたくなるか。大きく、大きく賛否が分かれそうである。

(本稿以上)

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by keroyaning | 2006-02-12 06:16
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